天正10年6月2日 京の本能寺にて、緒田信長が明智光秀の謀反により自害。
これにより、天下統一目前にして世は再び戦国乱世の時代へと舞い戻るのである。
このとき羽柴秀吉は、事件を知るとすぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和すると備中から京都に軍を返した。
世に言われる、中国大返しである。
天正10年6月13日 山崎にて、秀吉は4万の兵力で1万6000の明智光秀ぶつかる。
この戦いでは、信長の三男・信孝を初め池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持。
その為、兵力で劣る光秀方は敗北し、光秀は落ち武者狩りにより討たれた。
秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握したのである。
天正10年6月27日 清洲城において信、長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれ、
信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)が後継者となる。
その後、柴田勝家・徳川家康などと対立しつつも、天正13年8月 紀伊・四国・越中平定を成し遂げる。
天正14年9月9日 秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任、ここに豊臣政権を確立。
そして、天正18年7月5日 小田原征伐を成し遂げ、ついには天下統一したのである。
しかし、秀吉の天下は長くは続かなかった……。
慶長3年8月18日 伏見城にてその最期を遂げると、天下は再び乱世へと舞い戻った。
慶長5年9月15日 美濃国不破郡関ヶ原にて、徳川家康率いる東軍(徳川軍)と、毛利輝元を総大将とする石田三成率いる西軍(豊臣軍)が激突。
裏切りと策謀により、西軍は大敗を喫してしまう。
慶長5年10月1日 大坂・堺を引き回された石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の3名及び、伊勢で捕らえられた原長頼は京都六条河原において斬首され、
その首は三条大橋に晒されたのだった―――。
その頃――伊賀・霊山に表舞台とは一切関わらず、ひっそりと住む一族があった。 名を‟霞一族”といった。
‟霞一族”は伊賀本家筋の正統なる血筋を受け継いだ、‟忍”の一族だった。
彼らは代々、‟龍神”を奉り守護する一族であり、そしてその身に稀なる力を宿していた。
その稀なる力は、「瞳の色」によって強さがわかり、その色が濃ければ濃い程、力は増していた。
そしてその力はを我が物にしようと、ありとあらゆる諸大名が彼らの里を探したが、見つける事は叶わなかった。
そんな折、現頭領の息子夫婦に、双子の女児が生まれる。
一人は血の様に赤い紅玉の瞳を持ち、もう一人は淡い桃色の瞳を宿していた。
紅玉の瞳を持つ姉は六花(りっか)、桃色の瞳を持つ妹は咲花(さな)と名付けられた。
そして、慶長17年 二人が16のを迎えた時、自体は動きだす――。
それは、安寧の時か、それとも乱世に巻き込まれていくのか……。